境内案内
境内案内
①本堂
江戸時代に版刻された『江戸名所図会』には、曼荼羅淵と持明院境内の様子を描いた挿絵がある。そこでは、茅葺屋根の簡素な木造建築物として、御本尊の秘仏大日大聖不動明王を祀る本堂の絵がみられる。明治17年の火災により本堂が焼失し、長らく仮堂のままであったが、持明院中興第三十六世木村盛雄住職により、鉄筋コンクリート構造の本堂が再建された。また本堂正面右側に隣接する建物は、もともと庫裡であったが、現在は改修され、客殿として使用されている。
②曼荼羅堂
持明院本堂の左隣には、曼荼羅堂と呼ばれる阿弥陀堂がある。
宝暦6年(1756年)に淵上山持明院法流四世・現位法印慧眼が著わした「曼荼羅尊略縁起」によれば、天長年中(824~833)に弘法大師空海が関東各地を行脚の折、この地にあった大樹の下に野宿したところ、深い淵の中から青龍が現れ、曼荼羅の巻物を授けた。
そこで大師は、阿弥陀如来像を彫刻し、小さな祠堂を建てて、曼荼羅と一緒に収めたという。
また、「久米郷旧跡地誌」には、この堂にまつわる、日蓮と「久米の曼荼羅伝承」が記されている。それによれば、文久十一年に佐渡
配流から赦免された日蓮は、鎌倉への帰途において、児玉郡八幡山村の児玉六右衛門へ自筆の曼荼羅を授ける。
日蓮と別れた六右衛門は、柳瀬川のほとりに堂を建立し、曼荼羅を祀ったという。以来、その堂は曼荼羅堂と呼ばれるようになり、のちに亀ヶ谷から持明院へと移築された。
日蓮の曼荼羅といわれるものは、現在近隣にある仏眼寺に蔵せられているが、それは、真言宗の両界曼荼羅であり、日蓮宗の題目曼荼羅ではなく、そこには、伝説の変遷と混在が見受けられる。
明治17年、持明院は火災に見舞われ本堂と庫裡を焼失する。その際、曼荼羅堂から仏像類が持ち出され、難を逃れた。ところが、阿弥陀如来像は、行き方知れずとなり、遂に戻ってこなかった。
出 典
「家庭新聞」1992年9月13日 2面
『所沢市研究 第七号』 栗原仲道「寺泊御書と日蓮武蔵野伝承と伝説」
③客殿
明るく綺麗な客殿ではご葬儀はもちろんのこと、多人数の法事にもご利用いただけます。
④芝増上寺の石灯籠
芝増上寺敷地に東京プリンスホテルを建設した際、西武グループが埼玉西部の諸寺院に寄進した石灯籠。江戸時代に、全国の諸大名が徳川宗家のために制作したもので、灯籠の裏には、寄進した大名の名が刻まれている。
⑤持明院法流五世天樹の宝筺印塔
持明院の宝篋印塔は、明和五(1768)年、念仏供養のため、法流第五世法印天樹が建立したものである。基壇右面には、「江戸市谷田町四丁目石工角田や関長右衛門」、前面には「書写念仏百萬遍、同一百萬遍市谷田町関氏おさへ他」と刻まれている。十萬人講中のひとりとして加わっている関長右衛門は、江戸時代後期の石工で、「関氏おさへ」は、その内儀と思われる。
⑥永代供養墓
故人の家族やご親族に代わり寺院が責任をもって、永代にわたって日々のご供養と管理を行います。
⑦六地蔵
⑧所沢七福神(恵比寿様)
⑨弘法大師像
⑩持明院歴代住職の墓苑
⑪歌碑
⑫手水鉢